存在驚愕〜THAUMAZEIN〜気づきの日々

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zoom RSS 【メモ】『鍵』

<<   作成日時 : 2016/11/25 11:50   >>

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鍵を探していた。探すというか、何が鍵なのかを探していた。鍵はあるのに、その使用目的とか、鍵穴が探せないとか…あちゃこちゃごちゃごちゃ…思考がめぐる。

で、結局。

さっき瞑想してて分かったのが「寂」が鍵かも、ということ。。。。
『寂光』の「寂」
サンスクリット語の「寂」を見つけないと。。。。お経の中に在る言葉な筈。法華経か無量寿経か…なんかそのあたり。知識ないのでわからんが。サンスクリット語の「寂」に込められた意味が、参考になるような気がする。サンスクリット語はそういう意味で便利。



えーーと

で『寂』は、guNa(質)で言うとsattva guNa(純質)。これは私の所見。
先日のギーターの授業で、知識を得る為に必要な事はsattvaの質であること、と教わった。
知識を得る、ということの微細な局面を思うと、sattvaであることの重要さも分かってくる。
っていうか、わかってきた。
理解が深まった。

知識にもguNaがあって、sattva/rajas/tamas
それぞれ、純質/激質/暗質

純質と訳されてしまうと、なんだかどんどんわけのわからない思考の世界にはまる。

これを、微細さとか、それこそ「寂」で、sattvaという言葉に取り着いてみる
すると…静かであること…こそ、知識を得る為に重要である、となる。

微細であることも、静けさも、激しい動きの中にはない。
怠惰の中にもない。

その『寂』が知識を得るための鍵。

そして、寂は鍵であるため、入口にしかすぎない、ということも分かる。

入口に入る為の鍵が「寂」
そして、さらにその奥義が、玄関上がっていく先にある。
鍵とは、ほんとうにささやかな入口。



奥義が待つのはそのさらに先

で、「寂」という鍵を更に説明をこころみる。
で、観えて来たのはやっぱりインド哲学『ヨーガスートラ』yoga suutra

このスートラで学ぶのは(これも所見)『集中』…意識の集中について。
そのことを、クラスではちゃんと説明されない。これは多分、ヨーガスートラが師から弟子へ直接説かれる中で説明され得るもので、大勢のクラスではちょっとムリなのかなあ…と、これもわたし的な所見で思う。それは、何度か先生に質問した中で、わたしの理解と先生やクラスの他の人との理解の差がある、ということでわかった。。。。質問しても、先生からは答を得られない。でも、私は答を得られた。それは、先生(グル)が、私の中にいるから。グル-アートマーが教えてくれているから。
この、グルアートマー(師である真我)という考え方を教えてくれたのも、インド哲学だけど。。。。

インド哲学の恩恵はさまざまです。


グルアートマーは、インドではダクシナムールティ…南を向いた姿の無い像…というマントラで教えている。その、姿の無い像とは、シヴァ神で、そのシヴァはカイラス山(須弥山=スメル山=シュメール)の上で、ずーっっと瞑想し続けているという……。

そして、そのカイラス山を、秩父の武甲山に見立てている人もいる、というのがまた面白い…
武甲山は観音菩薩の霊場でもある。
観音菩薩とは、インドの「アルダナーリイーシュワラ」シヴァ神とパールヴァティ女神の和合した姿と同義と云われる。観音像を見れば、女性のような優しさをたたえつつ、おひげがある、という、両性具有というか陰陽混合というか、な姿で、アルダナーリイーシュワラと同義と云われれば納得。
そのグルアートマー(観音菩薩)とは、全ての生類のアナハタ(心、ハート)の中におわす存在である…
全ての生類はそういう形で繋がり合っている。
という教えもまた、インド哲学で学んだ。


で、「集中」に話を戻すと。

集中とは、思考の流れをひとつにすること。
あちらこちらにとっちらかった、思考の流れを、ひとつにする。
「あれもしなければ、これもはやく、それをやってこれをやって…」→現代人の思考
ひとつにまとまらない。
欲望がマインドの先で鼻をひっかけてつれまわす。

というわけで、修行の入口では欲望から離れろ(=離欲 ※捨てるではなく)とさかんに云われる。これがまた、混乱を引き起こす原因ともなってるけど、古代の師弟関係ではそういうことは起こらなかった。たぶん師匠とは、弟子の成長に会わせ教えの内容を深化させる存在だからと思う。


えー。
で、「集中」
ヨーガスートラで教える集中とは、つまり
yoga citta vRtti nirodhaH(yogazcittavRttinirodhaH)
「思考の止滅」である

※止滅は思考を止めるのであって、死滅ではない
 これを間違ってる坊さんとか多いみたい

道元の言葉に
「不思量底を思量せよ
 不思量底を思量するとは?
 ─非思量である」
という言葉があるそうだ。禅の坊さんにおそわった。即ち、不思量とは非思量であり、思考の止滅であり、それが「禅」である。(思量とは思考の流れ)

ちなみに、禅とはサンスクリット語の「ディヤーナ」の音訳。
で、ヨーガスートラの中で説かれる、ヨーガの8段階のうちの7番目が、このディヤーナ。

その段階の最終的なものが「サマーディ」=三昧

その、サマーディに至る為に必要な事が、ヨーガスートラ1章2節「ヨーガスチッタブルッティニローダハ」ヨーガとは思考の止滅である
人間にとって、思考がいかに大切か、重要か、知れる文言。

そして、その鍵を手に入れると、寂の状態になり、寂の状態から、(真の)知識が流入してくる。
誰かの頭の中から出て来た二次情報でも三次情報でもない、いまここの一次情報。






私の求道の始まりは この【一次情報】が欲しかったから
     喉から手が出るほどに求めた
   それがいまのわたしにつながっている



まずは、鍵を手に入れたので、どうやってその寂を深めて行けるかが今度の課題。
やれやれ。やっと入口か。

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